親の愛に気づいていますか?

屋号の言葉に込めた思い

私は、コミュニケーションハウス「サクイエ」を主宰しています。

「一人ひとりの花咲く家」という意味です。

波動療法「フラワーエッセンス」をホワード七歩子さんから直接学び、人生の大きな変容を体験したのが2012年でした。実際に環境が大きく変化して、大嵐に巻き込まれているような半年間を過ごしました。

ザブーーンと大波が来てブクブク沈んでしまう。それからフワーと浮かんでくる。

とても不思議な感覚でした。

混乱と喜びが交互にやってくるという初めての体験。

涙をたくさん流しました。

気づきもたくさんありました。

そしてたくさん助けられました。

その内の一人、大きな助けの手を差し伸べてくれたのは、父でした。

昭和の時代の子育ては父親不在が普通でした。

私は父親にそれほど興味を持つこともなく、大人になりました。

今考えると”ひどい娘”です!

それなのにこんな娘を父は半世紀以上も愛し続けてくれていたのだと、やっとやっと気づける時がやってきました。

父は2013年に90歳で天命を果たしました。

私は東京で結婚、子育てをしていましたが、55歳で離婚を決意。
父に告げようと思った翌週に、突然逝ってしまいました。まるで娘のために、実家に居場所をつくってくれたようなタイミングでした。
父が残してくれた遺産を有効に使いたくて、山梨県の古い家を購入し移住することにしました。そこは私が生まれた時の家の雰囲気によく似ています。身近に樹木や山々を感じながら、暮らしていきたいと思いました。

望みを仕事にするための名称「サクイエ」

「さくちゃん」と呼ばれていた父の名前を使うことにしました。

父は亡くなる前日まで、自分が起こして長男が継いでいる会社で仕事をしていました。

「自分は仕事が好きで大事だから、死ぬ前日まで会社に行っているんだ」
と生前よく言っていて、その言葉通りになりました。自分の仕事、会社、従業員、そして家族を愛した人生でした。

さて、お父さんはどんな人だったろう?

改めて考えてみた時に、ふと私が10歳にもならない頃の記憶が湧いてきました。

その頃、時々家に来る高齢のおじいさんがいました。そしていよいよ最期の時、施設に入所されました。3人兄弟の真ん中だった私だけを父は連れて、面会に行きました。そのおじいさんが職員の方に連れられてこちらに向かってくるのが、ちょうど映画のシーンのように、はっきりと蘇ってきたのです。その方は、私たちが会いに来てくれたことをとても喜んでいました。
そして子どもだった私の手を取り、涙ながらに「自分はあんたのお父さんに助けられた。本当に感謝している」と、言ったのです。私は目を瞠り、とても重要なことに直面していると感じました。

その方は、身寄りのないおじいさんでした。戦後、家族を失った人たちがまだ大勢いる時代でした。父は会社や家でのちょっとした仕事をしてもらって賃金を渡し、生活を支えていたようです。父は相手を尊重し、能力を生かしてもらいながら、人を助ける人だったのです。

「お前もこうやって生きなさい」

このシーンを思いだした私に父の声が聞こえました。

この父の行動と思いが私の活動の原点になっています。

私は、家族のコミュニケーションの課題をクリアーするための『心のセッション』を行っています。
ここでお会いする方々は、自分の中の輝きが一時的に見えなくなっている状態です。
やってくる大波小波にアップアップしたり、潜り込んでしまったり。
でも必ず自分の力で浮上し泳ぐことができるのです。解決する力はその方の中にあることを知っています。
私は少し環境を整えて、光の方向を示すだけです。

私が母親との長年の葛藤を解消できたのには、父の言葉が大きく影響していました。父が真実を伝えてくれた時、長年のわだかまりが氷解していったのです。

そのおかげで、家族の関係にストレスがなくなり、私は自分のやりたいことをやっていくことに100%シフトすることができました。

一人でいても一緒にいても心地いい

一人ひとりの心地よい在り方があるでしょう。
「ほんもの家族育成メソッド」では、家族一人ひとりが自分の道を自分らしく生き、お互いに尊重し応援し合える関係を築いていきます。